崇神天皇がいつの時代の天皇なのかというのはとても興味がある所であり、魏の時代の邪馬台国の場所の推定にも影響を与える。これを歴代天皇の古事記記載の歴代天皇の崩年干支から推定してみた。
崩年干支が記載できる条件の前提(仮定)は相変わらず
① 崩御時にその年の干支がわかる人間がいる事
② 崩御年を記録(記憶できる)媒体がある事
③ 国内がある程度安定していて、皇位継承がスムーズである事
として考えを進める。
今回は、まず天皇の在位順序と崩年干支から、仁徳天皇からさかのぼり機械的に崩御した年を西暦で仮定してみた
| 代 | 天皇 | 崩年干支 | 番号 | 西暦 崩年 | 備考 |
| 10代 | 崇神天皇 | 戊寅 | 15 | 318/258? | |
| 11代 | 垂仁天皇 | 崇神天皇の第3皇子 | |||
| 12代 | 景行天皇 | 垂仁天皇の第3皇子 崇神天皇の3世孫 | |||
| 13代 | 成務天皇 | 乙卯 | 52 | 355 | 景行天皇の第4皇子 崇神天皇4世孫 |
| 14代 | 仲哀天皇 | 壬戌 | 59 | 362 | ヤマトタケルの第2子 崇神天皇の4世孫 |
| 15代 | 応神天皇 | 甲午 | 31 | 394 | 仲哀天皇の第4皇子 |
| 16代 | 仁徳天皇 | 丁卯 | 4 | 427 | 応神天皇の第4皇子 |
成務天皇から応神天皇までは連続して崩年干支が記述されている。ここから自分の推定は、成務天皇の崩年は355年、そして応神天皇が394年。
355年近辺では、中国・百済の史書によると、すでに百済では近尚古王の治世であった。また、中国は混乱が続いていたが、晋の流れをくむ東晋が落ち着いてきて百済との通交は確認されている。この時代は、日本も積極的に海外進出を進めていた。応神天皇の治世にはなるが、百済の“照古王”の記述があり、渡来人が多数日本に来たとも記されている。従って、干支の知見についてはあったとみている。
この時代に共通して出てくるのが建内宿祢。スムーズ(トラブルはあったが)な皇統の連続性という面では、建内宿祢が大きな役割を果たしたのではないだろうか?
先の仮定によると、応神天皇の崩年は394年、誕生したのが仲哀天皇の崩御直後だとすると、31歳くらいで崩御した事になる。一方で、古事記によれば、応神天皇は奥さん10人で26人の子を設けている。最高で1人当たり5人。少し引っかかる。ま、神と呼ばれているくらいだからできなくはないか?
崇神天皇は、成務天皇の曽祖父にあたる。崩年干支は戊寅なので、直近から言えば318年。4世代間の間隔が37年というのはちょっと微妙な気がする。もう一回りとすると258年。そうすると、魏志倭人伝で伝わる邪馬台国の時代だ。しかし、4世代間で97年も微妙と言えば微妙。平均32年程度で世代交代となる計算になる。
仮に258年だとすると、近辺で魏の使者も来ている事だし、干支の知見は周囲にあったと言えるかもしれない。318年であれば、通交があった西晋が八王の乱を契機に混乱し滅亡、後継である東晋が出来あがったばかりの時代なので、百済、日本との通交は(すく)ないと考えられる。
*垂仁天皇と景行天皇について
垂仁天皇と景行天皇については、崩年干支が記載されていない。先の中国の混乱に加え、ヤマトタケルに代表されるように、国内の統治に力を入れていたころだと考えると、干支の知見もないという事では辻褄があう。
まとめ
古事記記述の歴代天皇の崩年干支が正しいという前提と、それが、記録として残るための条件を仮定して、各天皇の崩年、治世の時代を推定してみた。
結果として、いくつかの疑念点は残るものの、崇神天皇の治世が魏志倭人伝の時代、つまり3世紀半ばと重なる可能性を導けた。
実証するには、“師木の水垣の宮”の遺跡の発見とその年代推定が必要な事は言うまでもない。