魏志倭人伝によると、238年(あるいは239年)、倭国は魏に対して朝見したい旨を伝え、実際に朝貢を行った。これが、魏に対する最初の朝貢だ。対する魏からの返礼品がものすごく豪華なものであり、何かしら思惑があるように感じられる。一方の倭国の意図はどうであったのかも興味深い。
再三の国交と過分な下賜品
貢物は、男の生口4人、女の生口6人、帆布2匹2丈。生口というのは奴婢という説があったり、技能を持つものだという説があったりではっきりはしていないが、生身の人間である事は確かだ。自分としては、海洋に関する技術を持つものか、あるいは将来の交流の為の人材だと思いたい。
一方で、これに対する下賜品だが、
- 返礼品として、絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹
- 卑弥呼個人に、紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤
と破格の扱いだ。
また、卑弥呼を親魏倭王と任じ金印紫綬を授与
使いの難升米、牛利をそれぞれ率善中郎将と率善校尉に任じ、銀印青綬を授与
これは当時の他の夷国と比べても最上級の扱いのようだ。
魏の思惑
いくつかの参考文献によると、魏の思惑の一つとして、倭国が南にずっと伸びているという認識であったことからも、当時覇権を争っていた呉の東の抑えとして、囲い込む事が狙いだったようだ。
その為には、倭国の数十もある国々の内乱を押さえ安定させる事も必要になってくるのだろう。
その後、率善中郎将の肩書を大安売りしている事もあり、納得できる気がする。
倭国側の思惑
倭国側の思惑はどうだったのだろうか? 超大国、中国の後ろ盾および権威をどのように利用しようとしていたのかが気になる。政権の中枢がどこにあったのかという事にも関連するが、自分なりに可能性について考えてみた。
- 九州北部の勢力が、南部も含め九州内の統一を確かにするた め。
- 九州北部の勢力が、当時勢力を増してきた畿内勢力に対抗するため。
- 九州北部の勢力が、支配領域の拡大あるいは東遷(東征)の為に利用するため
- 九州北部をすでに統属させた畿内勢力が、畿内周辺および九州南部に勢力圏を拡大させるため
3世紀、遅くとも4世紀初頭には、前方後円墳や三角縁神獣鏡などの文化が、畿内を中心に九州北部を含めて西日本に広がっている。つまり倭国の中心が畿内であった事になる。
と、考えるとA、Bであると、3世紀半ばから、4世紀初頭にかけて畿内勢力が九州北部を支配下に置いた事になる。その場合激しい戦いがあったはずと考える。しかし、古事記等には記録として残されておらず、違うのかなと感じる。
とすると、CかDになる。邪馬台国はCであれば九州北部に、Dであれば畿内に位置する事になる。