五世紀の倭の五王については、応神天皇から雄略天皇迄の7代の天皇が比定候補とされている。今回は、ちょっと変わった視点でその比定を試みた。
讃・珍・斉・興・武は中国風諡?
日本はこの時代、この様な中国風諡的な名前を使ってはいなかっただろう。
朝貢の際の国書の様なものの中にこの名が使われているとすれば、自分には違和感がある。
崩御した後につけられる諡と考えた方がスッキリするし、あるいは中国から見てつけられた名前という事も考えられる。 いずれにしても、後付けの様な印象だ
名前と事績等だけで倭の五王を比定してみた
という事で、“トンデモ”理論になるかもしれないが、名前から受ける印象と古事記に見られる各天皇の事績から五王を比定してみた。
- 讃=仁徳天皇
大規模治水工事や税の一時免除等の事績により、民衆から讃えられた
- 珍=反正天皇
身長が九尺二寸半、歯の長さ、一寸幅は二分という大巨人。つまり珍しい容姿
- 斉=允恭天皇
氏姓を正したという事績があるが、その方法は、「八十禍津日神」を招いて嘘を見抜き、罰を与える、つまり盟神探湯するといった、斉戒?なものであった。
- 興=???
わからない。確実と見られている安康天皇だが、興を想起させる事績が記載されていない。ひょっとして、木梨之輕太子が、一時在位していたが、(スキャンダルの他)唄などに興じていて、廃位されたのではないか等と考えてしまう。でも、これは飛躍しすぎかな?
- 武=雄略天皇
武力で帝位をもぎ取った雄略天皇は武王にふさわしい。乱暴者だし。
とまあ、こんな具合になったがどうだろう。「古事記記載の干支」は正しいという仮定ともそう矛盾はないようにおもえるのだが、、