古事記記載の干支について考察してみた(1)で、歴代天皇の崩年干支が記録として残る条件として
① 崩御時にその年の干支がわかる人間がいる事
② 崩御年を記録(記憶できる)媒体がある事
③ 国内がある程度安定していて、皇位継承がスムーズである事
と仮定した。この条件で各天皇の在位時代を西暦で推定してみることにした。
倭の五王の時代
倭の五王については、五世紀の事(晋書帝紀等を参考にすると)として、中国の史書(晋書帝紀等)に記録が残されている。
また、五王の比定候補は仁徳天皇~雄略天皇のいずれかと言われている。
この時代は、大陸との国交が盛んであった事もあり、干支の知識を持った人間が多く、記録媒体も充実し始めたのではないかと考え、古事記記載の崩年干支が正しいのではないだろうか? そう仮定して崩年を西暦で推定してみた。
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代 |
天皇名 |
崩年 |
干支 |
推定 |
備考 |
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16代 |
仁徳天皇 |
丁卯 |
4 |
427 |
倭の五王の讃? |
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17代 |
履中天皇 |
壬申 |
9 |
432 |
倭の五王の讃?仁徳天皇の嫡子 |
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18代 |
反正天皇 |
丁丑 |
14 |
437 |
倭の五王の珍?仁徳天皇の第3皇子 |
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19代 |
允恭天皇 |
甲午 |
31 |
454 |
倭の五王の斉?仁徳天皇の第4皇子 |
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20代 |
安康天皇 |
? |
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倭の五王の興?允恭天皇の第2皇子 |
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21代 |
雄略天皇 |
己巳 |
6 |
489 |
倭の五王の武?允恭天皇の第5皇子 |
第20代の安康天皇の崩年干支が記載されていない。古事記によると、安康天皇は殺害され、その後も内紛が起こったとされているので、稜の着工など干支を記録する余裕がなかったのではないだろうか?