古事記には、歴代天皇の崩年の干支が記載されている。但し、実在性の高い初めての天皇とされる第10代崇神天皇からを見ても、24天皇中15天皇のみの記載にとどまっている。その理由を考察してみた。
干支が記録として残る必須条件
古事記編纂時期において、崩年干支が記録として残る必須条件を推測してみた。
① 崩御時にその年の干支がわかる人間がいる事
当たり前の事ではある。しかし、古代日本の朝廷の官僚ともいうべき人々が今の(60年周期)干支が何であるかという知識があったのであろうか? 大陸から多くの知識人が渡来し、様々な知識を得た後(5世紀くらい?)であれば可能であろう。例外としては、中国からの使者あるいはコンサルタント的な人間が、その時天皇周辺にいればという事であれば可能か。
② 崩御年を記録(記憶できる)媒体がある事
記録については、時代が下れば公文書的なもの(帝紀や豪族保有の書類)がないとも言えないだろうが、やはり3,4世紀には難しいような気がする。唯一の可能性と考えたのは、陵墓に何らかの記録が残されていた。もちろん文字およびそれを刻む知識と手段がある事が前提ではあるが。
記憶についてはどうだろうか? 物語を伝承する事は、各地の伝承がバックアップとなりうるが、干支に関しては危ういような気がする。
③ 国内がある程度安定していて、皇位継承がスムーズである事
①、②の条件が整っていても、内紛などで国内が混乱していれば記録を刻む余地がないし、稜の建設にも異論が出る場合も考えられる。
以上の考え方で、古事記記載の天皇の崩年干支を見ていくと、その信頼性と実年代について、何か知見が得られるのではないだろうか?